避難所の生活スペースは畳一畳、歩くスペースすら無く、福祉用具を使用することは困難な状態であった。その中で高齢者や身体の不自由な人は、ずっと寝たままやずっと座ったままの生活が続いていた。
立ち上がり起きあがりが出来なくなる人。
床ずれが出来てしまう人も沢山いた。
また、避難所は学校の体育館や公民館が多く、バリアフリーとは言えない状態で、出入り口に段差があり、トイレも和式であるため高齢者が使用するには困難があった。そこで福祉用具を活用して、据え置きの洋式トイレで対応したり、車椅子のクッションを工夫したりした。

しかし、用具だけの対応には限界があって、3週間が経過して頃、陸前高田市の大きな避難所の中の1室に介護・介助の必要な人を集めた専用の部屋を確保した。そこでは介護福祉会、看護協会、ケアマネ協会等の様々なボランティアが協力して介護にあたった。

避難所として提供された施設の中に特養や老健、介護事業所があった。これらの避難所は、入居者を抱えながら地域住民の避難所としての役割を果たしたのである。施設に働く職員は、自らも被災者でありながら不眠不休で救援活動を担ったのである。陸前高田市にある特養では震災の発生直後から避難所となり、震災直後は800名が避難して来た。避難所を切り盛りするのは施設職員だけではまかない切れず、行政から派遣された介護派遣職員とボランティアによってしのいだという。職員は自宅に戻る車のガソリンの確保が出来ないため、施設に寝泊まりしながら施設利用者へのサービス提供と救援活動を行ったのである。施設職員が休日を取ることが出来たのは、5月の連休明けからであったと言う。